愛南町広見『ふるさと一本松祭』~愛媛県南予地方の闘牛~
なにかと忙しい毎日…
なかなかブログが更新出来ません。(>_<)
10月20日
愛南町広見『ふるさと一本松祭』行ってきました。

楽しそうな催しがてんこ盛り…
でも時間が無かったので
今回は以前から気になっていた『闘牛』を見てきました。

田んぼに作られた特設の闘牛広場です。
闘牛は、
わが国の伝統的な動物競技のひとつとして
全国各地で広く行われていましたが、

現在では
岩手、越後、隠岐、徳之島、沖縄
そして愛媛県の南予地方でしか行われていません。
南予地方の闘牛は
獅子文六さんの『てんやわんや』の大ヒットや
西宮球場への宇和島闘牛の遠征興行をフィクション化した
井上靖さんの『闘牛』(昭和25年芥川賞受賞)、
そして愛南町ゆかりの
宮本輝さんの『流転の海第二部 地の星』などで有名です。
宮本輝さんのお父さんは
ここ愛南町広見で生まれました。
宮本輝さん自身は神戸で生まれ、
関西で育ったそうですが
3歳から5歳の頃までの約2年間を
父親が経営していたダンスホールのあった
愛南町城辺北裡で過ごしたそうです。
宮本輝さんは平成元年11月に
愛南町城辺の老舗旅館、
『玉水旅館』(2010年閉館)に滞在して
愛南町一帯を取材されたようです。
地の星に出てくる闘牛の牛は
愛南町深浦の旧庄屋小幡(おばた)家が
飼っていた牛がモデルだとか…
『地の星』実はまだ読んだことありません。
是非読んでみたいです。

宇和島が有名な南予地方の闘牛ですが
愛南町が発祥の地といわれています。

地元で『突きあい』と呼ばれている
南予の闘牛の起源については二説あるそうです。
一説ではすでに鎌倉時代に、
農民が農耕用の強い和牛をつくることから
自然に原野で角を突き合わせ、
娯楽にしていたと伝えられています。
又一方、17世紀の後半頃、
宇和海(旧西海町の鼻面沖)を漂流していた
オランダ船を
愛南町福浦の漁民が
救出した礼として、2頭の牛が贈られた。
この牛がたまたま格闘したことにより
始まったとの口伝もあるようです。
起源はともかく享和年代より土俵を設け
混獲的に闘牛を行っていた様子は
藩政時代の古文書にも記載させているそうです。
日本の闘牛は、
スペインのような「人対牛」の形式ではなく、
牛同士を戦わせて
先に逃げた方を負けとするものです。
相撲文化の影響を強く受け
横綱・大関などの番付や、
闘牛場を「土俵」と呼ぶことなど、
日本の闘牛は相撲に見立てることが一般的です。
韓国の闘牛の場合、
トーナメント方式で行っているように、
世界的に見ても、
相撲の模擬形式で行うのは
日本闘牛の特徴と言えるそうです。

今回は三つの取組が行われました。
本場所ではないので
二つの取組は最初から引分が決まっているようです。
「協力 宇和島市観光闘牛協会」とあります。
愛南町の闘牛組合は一昨年の8月に解散しているとか…
愛南町で闘牛大会が開催される事はもうないようです。

横綱・愛南町『弁慶1号』の土俵入りです。
体重は950kg。
年齢的にも今脂が乗っているとか‥。
よく聞き取れませんでしたが
アナウンスで『50年前の飾りです』 と言っていたような…
体のわりに飾りが小さく見えますが
50年前の牛は現在より小さかったのでしょうか…
島根県や愛媛県の牛の角は
小牛の頃に矯正をして
角を上に向けているそうです。

江戸時代以来たびたび禁止にあった「突きあい」でしたが、
1トンほどある巨体の突きあいは
娯楽の無い時代の農民にとって、
大きな楽しみのひとつだったようです。
現在では
農業の機械化などにより、
農業の生産手段として牛が使用されなくなるとともに、
伝統的な飼育方法や、突きあい習俗、
地域ごとに行われていた取り組みの実態など、
牛の突きあいにかかわる伝承も失われようとしています。
平成7年11月
「南予地方の牛の突きあい習俗」は
文化庁から国選択無形民族文化財に選ばれました。
現在、南予地方の闘牛大会は宇和島市のみとなりました。
愛南町での闘牛大会、一度は見ておくべきでした…(><)

大関の闘いは
最初から引分が決まっているので
鼻綱を着けたままです。
牛には引き分けなんてわかりません。
本気モード全開です。Σ(゚∀゚ノ)ノキャー
すんごい迫力!
横綱の闘いはガチなので
鼻綱をつけていません。
角のぶつかり合う音…
勢子の掛け声…
迫力満点の大一番です。
…最後はあっさりと弁慶1号の勝利です。
初めての闘牛観戦‥
凄かった~
次は宇和島の闘牛場で
本場所の闘牛大会見てみたいです。(*´▽`*)





闘牛広場となりの田んぼは
一面のコスモスでした。

なかなかブログが更新出来ません。(>_<)
10月20日
愛南町広見『ふるさと一本松祭』行ってきました。

楽しそうな催しがてんこ盛り…
でも時間が無かったので
今回は以前から気になっていた『闘牛』を見てきました。

田んぼに作られた特設の闘牛広場です。
闘牛は、
わが国の伝統的な動物競技のひとつとして
全国各地で広く行われていましたが、

現在では
岩手、越後、隠岐、徳之島、沖縄
そして愛媛県の南予地方でしか行われていません。
南予地方の闘牛は
獅子文六さんの『てんやわんや』の大ヒットや
西宮球場への宇和島闘牛の遠征興行をフィクション化した
井上靖さんの『闘牛』(昭和25年芥川賞受賞)、
そして愛南町ゆかりの
宮本輝さんの『流転の海第二部 地の星』などで有名です。
宮本輝さんのお父さんは
ここ愛南町広見で生まれました。
宮本輝さん自身は神戸で生まれ、
関西で育ったそうですが
3歳から5歳の頃までの約2年間を
父親が経営していたダンスホールのあった
愛南町城辺北裡で過ごしたそうです。
宮本輝さんは平成元年11月に
愛南町城辺の老舗旅館、
『玉水旅館』(2010年閉館)に滞在して
愛南町一帯を取材されたようです。
地の星に出てくる闘牛の牛は
愛南町深浦の旧庄屋小幡(おばた)家が
飼っていた牛がモデルだとか…
『地の星』実はまだ読んだことありません。
是非読んでみたいです。

宇和島が有名な南予地方の闘牛ですが
愛南町が発祥の地といわれています。

地元で『突きあい』と呼ばれている
南予の闘牛の起源については二説あるそうです。
一説ではすでに鎌倉時代に、
農民が農耕用の強い和牛をつくることから
自然に原野で角を突き合わせ、
娯楽にしていたと伝えられています。
又一方、17世紀の後半頃、
宇和海(旧西海町の鼻面沖)を漂流していた
オランダ船を
愛南町福浦の漁民が
救出した礼として、2頭の牛が贈られた。
この牛がたまたま格闘したことにより
始まったとの口伝もあるようです。
起源はともかく享和年代より土俵を設け
混獲的に闘牛を行っていた様子は
藩政時代の古文書にも記載させているそうです。
日本の闘牛は、
スペインのような「人対牛」の形式ではなく、
牛同士を戦わせて
先に逃げた方を負けとするものです。
相撲文化の影響を強く受け
横綱・大関などの番付や、
闘牛場を「土俵」と呼ぶことなど、
日本の闘牛は相撲に見立てることが一般的です。
韓国の闘牛の場合、
トーナメント方式で行っているように、
世界的に見ても、
相撲の模擬形式で行うのは
日本闘牛の特徴と言えるそうです。

今回は三つの取組が行われました。
本場所ではないので
二つの取組は最初から引分が決まっているようです。
「協力 宇和島市観光闘牛協会」とあります。
愛南町の闘牛組合は一昨年の8月に解散しているとか…
愛南町で闘牛大会が開催される事はもうないようです。

横綱・愛南町『弁慶1号』の土俵入りです。
体重は950kg。
年齢的にも今脂が乗っているとか‥。
よく聞き取れませんでしたが
アナウンスで『50年前の飾りです』 と言っていたような…
体のわりに飾りが小さく見えますが
50年前の牛は現在より小さかったのでしょうか…
島根県や愛媛県の牛の角は
小牛の頃に矯正をして
角を上に向けているそうです。

江戸時代以来たびたび禁止にあった「突きあい」でしたが、
1トンほどある巨体の突きあいは
娯楽の無い時代の農民にとって、
大きな楽しみのひとつだったようです。
現在では
農業の機械化などにより、
農業の生産手段として牛が使用されなくなるとともに、
伝統的な飼育方法や、突きあい習俗、
地域ごとに行われていた取り組みの実態など、
牛の突きあいにかかわる伝承も失われようとしています。
平成7年11月
「南予地方の牛の突きあい習俗」は
文化庁から国選択無形民族文化財に選ばれました。
現在、南予地方の闘牛大会は宇和島市のみとなりました。
愛南町での闘牛大会、一度は見ておくべきでした…(><)

大関の闘いは
最初から引分が決まっているので
鼻綱を着けたままです。
牛には引き分けなんてわかりません。
本気モード全開です。Σ(゚∀゚ノ)ノキャー
すんごい迫力!
横綱の闘いはガチなので
鼻綱をつけていません。
角のぶつかり合う音…
勢子の掛け声…
迫力満点の大一番です。
…最後はあっさりと弁慶1号の勝利です。
初めての闘牛観戦‥
凄かった~
次は宇和島の闘牛場で
本場所の闘牛大会見てみたいです。(*´▽`*)





闘牛広場となりの田んぼは
一面のコスモスでした。

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